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メキシコ出身の監督イニャリトゥ氏の作品「バベル」は、カンヌで注目を浴びたり、アカデミーでノミネートされたりと、公開前から話題になっていました。また、公開後も、強い照明効果によって観覧時に気分が悪くなったりなどの現象があるなどの注意が呼びかけられるなど、映画のストーリー/内容そのものに関する話題が、あまり聞こえてきてませんでした。 5月の連休中に、バベルをご覧になった職場の方から、いたくオススメいただき、パンフレットをお持ちだったので斜め読みしたのですが、そのままウズウズしていたので、友人と観にいってきました。 モロッコ、アメリカ&メキシコ、日本の3箇所で起きることが、時間・空間を越えてつながっていきます。映画の中での進行も、シーンが3つのロケーションが入れ替わり出てきますが、同時に進行しているわけではなく、またキャストによって語られる昔の話も、全体をつなぐキーになっていたりします。 タイトル「バベル」は、旧約聖書に出てくる架空の建造物「バベルの塔」にちなんでつけられているそうです。ウィキペディアでは下記のような説明があります。 バベルの塔 – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A1%94
もともと人々は同じ1つの言葉を話していた。シンアルの野に集まった人々は、れんがとアスファルトを用いて天まで届く塔をつくってシェム(ヘブライ語、慣習で名と訳されている)を高くあげ、全地のおもてに散るのを免れようと考えた(偽典の『ヨベル書』によれば神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた)。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった(『創世記』の記述には「塔が崩された」などとはまったく書かれていないことに注意)。『創世記』の著者はバベルの塔の名前を、「混乱」を意味するバラルと関係付けて話を締めくくっている。
映画「バベル」のストーリー全体では、人の死がきっかけで、気持ちがすれ違うようになってしまった家族たちを「バベル(=混乱)」と重ねて映し出し、ちょっとしたきっかけで、平穏に暮らしていても、いつでもそんな状況に陥ってしまうかもしれない、現代の私たちの日常を描いているのだと感じます。しかもそのきっかけは、当人たちにはとても理不尽であったり、回避することができないことだったりすることもあります。 そんな時、私たちは、その現実にちゃんと向き合い、さまざまな解決策を一生懸命になって探して、進むべき道を見つけたり、自ら築いていくことができるはずで、そんな希望を映画「バベル」のエンディングで伝えてくれるのです。映画の途中では、気持ち的にも映像的にもキツイところがありますが、最後に「よかった」と思わせてくれる、救われた気持ちになるのでした。 基本的には英語でのせりふが多く、字幕にて日本語訳が出ていましたが、日本のシーンにおいても、すべて日本語字幕が出ていました。主人公の女子高生と家族や友人たちが手話を使って会話をするところがあり、その部分の日本語字幕は手話がわからない観客向け、日本語音声でのせりふ部分に出る日本語字幕は聾者向け、ということで、なるほどです。ただ、映画館を出たときに白人家族がいらっしゃっていて、もしかしたら日本のシーンはせりふがわからなかったのでは、と思います。 日本シーンでの聾の高校生が、寂しさを埋めるために奇行を繰り返すのですが、それが聾者に対する間違ったイメージを与える、という批判が出ているようです。社会的に正しいかどうかはともかくも、新宿の公園で、ドラッグをウイスキーとともに服用してみたり、クラブに出入りしていたり、というのは、聾かどうかは問題ではなく、現代の高校生が直面している社会の一部を鮮明に浮き彫りにしていて、とてもリアリティのある描写だと思います。 *** 映画で流れている音楽は、日本のシーンはテレビCMやクラブ、喫茶店などでのBGMに占められていた部分が多かったですが、それ以外はギター(具体的にはアラブの楽器のようです)ソロによる哀愁漂う音楽になっていました。グスターボ・サンタオラヤが音楽監修をしており、ギターソロは自身の作曲と演奏ということでした。